こんにちは!れこぽんです。
以前から岸辺露伴シリーズが大好きで、前作「ルーブルへ行く」もお気に入りの作品。
今作も「何がなんでも観にいく!!」という気持ちで、公開から割と早い段階で観に行けました。
(レビューを書くまでにこんなに時間が空いちゃったけど💦)
というわけで、映画『岸辺露伴は動かない 懺悔室』の感想を書いていきます。
あらすじ
人気漫画家である岸辺露伴は、取材のためにイタリア・ヴェネチアに訪れていた。とある教会に足を踏み入れた露伴は、信者の罪を牧師に告白する場所として利用される「懺悔室」に興味を持つ。いつもの好奇心でそこへ入り込んだ露伴は、仮面を被った男から恐ろしい告白を聞く羽目になり…
作品情報
『岸辺露伴は動かない 懺悔室』
- ジャンル サスペンス/ホラー
- 原作:荒木飛呂彦『岸辺露伴は動かない』第1話エピソード16懺悔室から
- 公開 2025年5月23日
- 監督:渡辺一貴
- キャスト:高橋一生、飯豊まりえ、井浦新、大東俊介、戸次重幸、玉城ティナ
感想※ネタバレ含む
お気に入りシーン
珠玉のポップコーンシーン
このシーンのことは、舞台挨拶の動画で事前に聞いていました。
期待を抱いて観ましたが、本当に素晴らしく、鬼気迫るものがありました。
この映画の一番の魅せ場といって過言ではないでしょう。
大東俊介さん演じる水尾が、戸次重幸さん演じるソトバから「ポップコーンを3回連続口でキャッチできなかったら、絶望を与える」という理不尽な呪いをかけられ、命懸けで勝負をします。「命がかかっているのに、ポップコーンて…」というアンバランスさが不気味なシーン。
ここでの大東さんの演技が凄まじいのです。呪いに怯える表情、狂気に歪む顔、ソトバに見せる傲慢な態度。この短い時間で、汚い人間の本質を見事に表現されていました。本当に目が血走っていて、「役者さんってすごい…」と思うと同時に、あまりにリアルなギリギリの表情に「大丈夫かしら…」と心配になるくらいの名演技でした。
アニメだと、少々グロテスクな内容でも割とポップに観れたのですが、実写になるとさらに生々しくなっています。特に女の子の舌が顔になるところなんかゾワゾワ〜っと。途中から「これどうやって撮影したんだろう…ストッキングでも被ったんか」と考えて気を紛らわせました。
結局勝負に負け、水尾は命を落とします。それでも呪いから逃げるため、必死にヴェネチアの路地裏を走り回るのですが、リアカーで運ばれているガラス?にぶつかって、内臓がぶらんぶらんに引っかかっているシーンが挟み込まれた時は、思わず「うあぁ…」と肩をすくめました。苦手な方はご注意を。
露伴先生ブチギレシーン
正直、前半のポップコーンシーンで見せどころを出し切ってしまって、後半はその緊張感とスピード感が減速したのは否めません。
それもそのはず、元のエピソードは短編なので、映画尺にするにはオリジナル要素で埋めなければいけません。一体どんな風に続けるのかしら…と心配していましたが、その辺りは上手く物語が展開されてたと思います。ここに関しては賛否あるようですが、私はさほど気になりませんでした。むしろ、前半で集中力と気力を持っていかれたので、後半はゆったりとヴェネチアの雰囲気や、他キャストの芝居に魅入ることができて、ちょうど良かったです。
そんな後半の山場となるのが、高橋一生さん演じる岸辺露伴が教会の前で地団駄を踏むシーン。
懺悔室で仮面の男の告白を聞いてから、事件に巻き込まれていく露伴。色々あって、露伴にも幸福の「呪い」が次々と襲いかかってきます。そんな状況に「この岸辺露伴がそんな幸福に満足する訳がないだろ!!」(的なセリフ)と怒り狂い、落ちている当選の宝くじをこれでもかと踏みつけます。
「これこれ!これが露伴先生よね〜」と、このブチギレシーンには、なぜか水戸黄門様の印籠のような満足感がありました。
高橋一生さんが何かのインタビュー動画で、「岸辺露伴は動かない」の本質は、露伴の「矜持」が決して揺らがないことだ(という感じのニュアンス)と仰って言いました。露伴は漫画作品への探究心からいろんな場所へ出向くし、事件に巻き込まれて狼狽たり、人間の闇を垣間見て動揺したり、実際はかなり動いているんですよね。でも、そんな中でも「矜持」「プライド」「信念」だけは不動。決して揺らがない。ジョジョシリーズのテーマにも通じますよね。今回の映画でも、そんな露伴の姿がオリジナル部分でこそしっかり描かれていました。今までシリーズ制作をされてきた方々の原作へのリスペクトと情熱が感じられて、私は高く評価したいと思います。
その他の見どころ
田宮(井浦新)のセリフ「助かった」に戦慄
最後は井浦新さん演じる田宮が、最愛の娘の死亡(偽装)を目にして絶望に暮れるのですが、「助かった…」と呟きながらその場を離れていくシーン…
娘を大事にしていると思われた田宮。結局は我が身可愛さだったのか、「こわっ」と思うと同時に田宮の言葉を聞いて、戦慄する露伴の表情も印象的でした。
オペラシーン
作中に出てきたオペラはリゴレットという演目だそう。
このシーンは映画館で見るとより楽しめると思います。目の前で聞いているような錯覚になって「映画を観にきたけど、オペラも楽しめちゃった」というお得感がありました✌️
絶望と幸せは表裏一体
この作品を観て、改めて「幸せとは」を考えさせられました。でも結局のところ
──「幸せは定義できるものではない」──
というのが、この映画の言わんとすることかな…
少なくとも、露伴やマリア(玉城ティナ)は、幸福を“誰かに与えられるもの”とは考えていません。露伴は漫画を描くことに全身全霊だし、マリアは仮面職人という生き方を選んでいる。それは「幸せになりたい」というよりも、自分の手で人生を切り開こうとする「意志の現れ」じゃないかと…共通しているのは、「自力」で生きる姿勢で与えられる幸せではなく、選び取る生き方に価値を見出しています。
一方で、田宮は真逆です。
あらゆる出来事に対して受け身で、運命に身を委ねている印象があります。呪いとして現れる現象を、「幸福」な出来事とする前提がまずあります。さらに、浮浪者を蔑んだ罪の報いから逃れることに必死です。自分で人生に価値を見出すのではなく、他者からの赦しをひたすら求め続けています。(教会で懺悔がまさにそう…)その姿勢は「他力」であり、自分で引き受けるという発想がありません。(使用人を整形までさせてるし…)
とはいえ、私は単純に「自力」が正しい。「他力」がは間違い。とは思いません。自力だって傲慢になりがちだし、他力であっても感謝できるのなら素晴らしいこと。大切なのはそのバランスで、自力と他力の匙加減で、人は「絶望」にも「幸せ」にも転がっていくのではないか。
まさに絶望と幸せは表裏一体…と感じました。
自分の人生を生きられないのは「罰」
そして、誰かから理不尽に奪う行為は「罪」であり、
自分の人生を生きられないことは「罰」かもしれないということ
田宮は浮浪者を蔑めたという罪を背負った時点で、もはや自分の人生ではない。罰しか受け入れることができない、とも言えますよね。可哀想な人ではあるけれど…
この罰を背負うんだという誠実な「覚悟」があったら
露伴や娘のマリアみたいに「意思」があったら
呪いをさっさと解除、もしくは別の人生を送れたんじゃないかな〜
自分の人生を歩んでいくためには、“誰かを傷つけないこと”、“罪を犯さないこと”が大前提ですね…
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